ある日、日本近海の定置網に一頭のオニイトマキエイが迷い込んだ。やがてナリモン水族館に引き渡されることが決まると、専用の海上生け簀での様子見を挟んだ後、本館の大水槽での飼育が始まった。
日本本土……それどころか世界でも飼育事例が極端に少ないオニイトマキエイだが、その個体はとても大人しく、何事もなく飼育の安定化まで漕ぎ付けられたため、その穏やかさからハワイ語で『雲』を意味する名前を与えられ、大水槽を彩る主役の一員として迎えられた。
しかし間も無くして、あおは体調を崩してしまう。再び海上生け簀に戻り、しばらくの療養生活を送ることになるのだが──その手助けを一際熱心に続けてくれたのが、「タツミ」という新人飼育員だ。
南の島村で生まれた彼は、幼い頃から海や魚と共に暮らしてきた。それ故か、花より魚、三度の飯より魚、他人の恋愛事情よりも魚……とにかく”魚好きの権化”と表しても過言ではないような青年に育つことになる。
後に上京し海洋専門学校を卒業すると、ナリモン水族館の魚類飼育チームに就職する。魚への愛と知識の代わりにコミュニケーション能力を犠牲にした彼は少々気難しい性格をしていて、他のメンバーともあまり打ち解けることができなかったが、魚類の飼育に対する熱意は人一倍に強かった。あおが体調不良により海上生け簀に戻されることが決まった際も、普段の近寄り難い雰囲気が嘘のような強い語気で、それに着いて行くことを真っ先に志願したほどだ。
何時も離れず面倒を見続けた彼の功が奏し、無事健康に戻ったあおは再び水族館の大水槽に舞い戻り、飼育も再開。少しばかり時が流れ──アニマルガールとなった。
タツミがいつものように大水槽直上のバックヤードに赴くと、オニイトマキエイが姿を消した代わりに謎の女の子が大水槽の深い水中を専用器具も無しに悠々と泳いでいたのだから、それはもう大層驚いた。しかも彼女は自分自身が「あお」という名前であり、そしてタツミを「ボクを大切にお世話してくれた大切なヒト」と認識していることが判ると、タツミも彼女が紛れもなくあおである事実を精一杯に飲み込もうとした。
タツミの新人さながらな飼育技術への評価や、誰がどう見てもあおがタツミに──乙女の恋心とも言える──厚い信頼を置いているらしいことなどが重なり、ベルとノリコの前例に倣って、タツミはあおの臨時担当特殊動物飼育員に任命された。その役割が、人付き合いに難のある彼にとってとてつもない重荷になってしまうことは想像に難くない……。
タツミが大水槽で作業をしていると、あおは彼に積極的に話しかけに行くのだが、年頃な女の子と話す経験なんて無いタツミはその対応に詰まり、不自然にあしらって彼女を避けてしまう……そんなやりとりを繰り返していた。
そもそも彼は、大好きな魚がある日突然人間の女の子になるなんて突拍子もない現実をやはり受け容れきれずにいたのだ。羨望の目でこちらを見てくる彼女を”魚”として見るか”女の子”として見るか──彼はその境界線上で延々と悩み続けることになる。
一方あおは、他の飼育員から水槽の外の話を教えてもらう機会が何度かあった。水槽の外にはそれはもう広い世界が続き、ここはそのうちのちっぽけな島に建ったジャパリパークという場所であること。そしてジャパリパークには、あおと同じように動物が人間の女の子になったアニマルガールという存在が多数いて、このナリモン水族館にもいること……。
特に興味を惹かれたのが「空」という存在だった。元々海棲生物である彼女にとって、水面の向こう側の景色というのは何とも魅力的で、スマホ越しに見せてもらった青空や星空といった光景の数々があまりにも美しい──いつしか、外の世界へ飛び出して、本物の空をタツミや他のアニマルガールと一緒に見てみたいという夢を抱くようになっていた。
あおは「水槽から出てみたい」と何度もタツミに提案してみるのだが、彼は一向に許してくれそうにもない。「元は魚類である彼女を外に連れ出したらどんな事態が起きるかわからない」という飼育員としての不安と「彼女を満足にさせられるような正しい付き合い方がわからない」という一人の人間としての自信の無さによるものだ。
絶妙に距離の空いた二人の関係がしばらく続くのだが──ある日、タツミから「外に出よう」と手を差し出される。
彼に何があったのかを彼女は知る由もないが、突然の転換に驚きつつも、あまりの嬉しさに満面の笑みを浮かべ、水面から手を伸ばす──
水族館を出て、あおがタツミと共に見上げた初めての空は、さんさんと光が降り注ぐ気持ちの良い晴天だった。
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